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日本武尊情報

 日本愛妻家協会のホームーページにもあるように、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、世界で初めて愛妻家宣言をした人物として有名です。そこで日本武尊(ヤマトタケルノミコト)について紹介したいと思います。

 日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生しました。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。ところが、この日本武尊は気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていました。

 しかし、小碓命が16才のとき、父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じました。

 九州の熊襲建(くまそたける)は大きな家を新築したばかりで、そこでは祝いの宴が催されていました。そこで小碓命は少女のように髪を結い、叔母(倭比売)からもらった小袖を着て宴に紛れ込みました。そして、酒を飲んで上機嫌になっているところを、短刀で兄を一気に斬り殺してしまいました。

 それを見て外に走って出ようとした熊襲建の弟を追い、背中から刀をさしたところ、弟は、自分たちの「建」の名をもらってほしいと願います。小碓命はこれより倭建命(日本武尊)と名乗ることにしました。

(「建」は勇敢な者という意味を持ちます)

 それから大和に戻る途中も、山の神、川の神、河口の神などちを征伐しました。出雲建(いずもたける)も征伐し、国を平定しました。

 そして宮に戻った日本武尊は羽曳野で一人の娘と出会いました。名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。やがて二人は結ばれました。

 しかし、日本武尊は休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。父は、東国の12か国(伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)が従わないので平定するよう日本武尊に命じたのでした。

 日本武尊は東征に出発。
 相模の国に入る前に奥様の弟橘比売が合流。

 船に乗って三浦半島沖から房総半島に向かいましたが、船出した直後に嵐がきました。雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船なすすべもありませんでした。弟橘比売は「海神の祟り」だと言い、海の怒りを静めようと海に身投げしました。

 やがて海は静まり、日本武尊たちは上総(千葉県木更津)に渡ることができました。海岸で日本武尊はクシを見つけました。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げて、去りがたい思いでいっぱいになりました。木更津(きさらず)は、この時の日本武尊の「君さらず」からきています。

 この後、東国を平定し、日本武尊たちは帰途につきました。そして、関東地方を去るにあたって嬬恋村で

「あずまはや(わが妻や)・・・・・」

と3回も嘆き叫んだと言われております。

 その後、三重県伊吹山で、最期の戦いを行い、ボロボロになって歩くことさえできなくなります。それでも血まみれになりながら大和を目指して歩き続ける日本武尊でしたが、さすがに衰え、能煩野(のぼの)で、ついに力つきました。そして

「やまとは 国のまほろば
 たたなづく青垣  山ごもれる やまとし うるわし」

と歌いになられ、亡くなられました。

嬬恋村ミニ知識

 「雪山讃歌」は鹿沢温泉が発祥の地です。昭和の初め、鹿沢を訪れた西掘栄三郎氏(第一次南極越冬隊長)らが吹雪に閉じ込められ、退屈しのぎに湯宿で作詞したといいます。


 これを記念し昭和46年に台字は西掘氏直筆により「雪山讃歌」の碑が建立されました。

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