中居屋重兵衛の碑と生家 |
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中居屋重兵衛の碑と生家中居屋重兵衛(1820〜1861)は、上州中居村(現在の吾妻郡嬬恋村三原)に生まれ、本名を黒岩撰之助、幼名を武之助と言いました。商人として身を立てようと江戸に出て苦労します。20歳の時、日本橋にあった和泉屋という書店で働きながら、色々な本を読み専門的な知識を学びました。著書に『子供教草(こどもおしえぐさ)』という本があります。これには、商人の心得などが書かれています。天保11年(1840年)、和泉屋善兵衛の元で火薬の研究に没頭し、蘭学者川本幸民とシーボルトに師事します。安政2年(1855年)には火薬の専門書「砲薬新書」を出版するなど、日本の火薬研究をリードしました。時は幕末であり、中居屋のもとには多くの武士が火薬知識を求めてやってきたといいます。 安政6年(1859年)日米修好通商条約締結に伴い、横浜が開港されたことから、幕府に強制的に移転させられます。しかし中居屋はこの機会に外国商人との上州生糸の貿易を半ば独占し(当時上州生糸はもっとも品質のよいことで知られた)、莫大な利益を上げました。横浜本町四丁目に建設した店は銅御殿と呼ばれるほど拡大しました。だが、彼は水戸藩のシンパであり、時の大老・井伊直弼とは敵対関係にありました。そして文久元年(1861年)、突如として消息を絶ちます。謀殺説もうわさされましたが、真相は藪の中です。また、ハンセン病治療に果たした役割に対して「生き神」と祀られています。 中居屋重兵衛の業績をたたえ、これを後世に伝えようと1980年に万座・鹿沢口駅前に碑と、その由来が建立されてあります。墓は1956年群馬県指定史跡になっています。 |
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