百体観音石造町石

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百体観音石造町石

 祢津の新張から地蔵峠を越えて、旧鹿沢温泉に行く間の山道(約12km)の脇には、一番から百番までいく種類かの観音様が、1町(約110m)ごとに祀られています。これを「百体観音石造町石」と言います。

 鹿沢の湯泉は、体を丈夫にするということで、昔から多くの人々の湯治場となっていました。この峠越えの険しい山道「湯道」を観音様を拝みながらそのお力にすがり、さらにお湯に入って体を丈夫にしようとしてつくられたものです。しかも1町ごとに置いてありますから、「道しるべ」にもなりました。百体観音像は、江戸時代の終わりごろの文久4年(1864)から明治6年の約10年間につくられました。最初につくることを願った人は、鹿沢温泉の楢原所右衛門たちで、実際に世話をしたのは新張村です。

 この新張に、大きな美しい「如意輪観音」を一番として、村中でつくりました。地上からの高さは約2.7mです。明治2年(1869)に伊那の高遠の石工、中山暉雲の手でつくられました。(一番と百番・他は不明)。百番観音は、旧鹿沢温泉の脇に立っています。以前鹿沢温泉は祢津領でしたが、今は群馬県ですから、一番から八十番(峠頂上)までが東御市の分ということになります。

 石仏は一体一体大きさも形も違い、10番ごとに大きく造られています。鹿沢の湯泉は大変、体を丈夫にするということで、昔から多くの人々の湯治湯となっていました。この峠越えの険しい山道「湯道」を観音様を拝みながらそのお力にすがり、湯治を行ったのだそうです。



百体観音の歴史

 鹿沢温泉の利用の歴史は信州側を軸として展開されています。ここで紹介する百体観音は、町石として、信州側の新張(みはり)を起点として現紅葉館西近くの百番を終点とする山の湯道に置かれました。

 そもそも町石とは、霊場に参拝する人のための道標として作られました。古くは鎌倉時代に和歌山県の高野山をはじめとする数例がよく知られています。一町(約百十メートル)ごとに自然石または、五輪卒塔婆形、笠塔婆形の石を建てて道標とするのが、一般的ですが、この湯道の町石は石彫りの観音像であることが大きな特色となっています。

 新張から温泉までの約三里、百町の長さの道筋に一町ごとに「○番しと刻んだ六観音の石像が建てられています。まずは新張に安置される一番の如意輸観音から始まり、県境の地蔵峠に建つ八十番十一面観音などを経て、鹿沢温泉の紅葉館わきに建つ百番千手観音まで続きます。

 人通りの少ない山道を観音様に導かれ、また善男善女の湯道をたどる慰めともなり、さらに観音様のご利益に支えられながら湯治場にたどりつく、という趣向が凝らしてありました。信州側では百体観音の町石の番号が、千曲バス停留場の名称になっています。また、この珍しい構想は、新張区にある第一観音の台座に、「西国一番」と刻まれていますので、西国の霊場巡礼の気持ちも取り入れたものと思われ、全国的に類例のない貴重な民俗資料であるともいわれています。

 現存する観音像で確認できる種類は、聖観音、千手観音、十一面観音、馬頭観音、如意輸観音、准胝(じゅんてい)観音などのいわゆる六観音。六観音は六道の衆生の救済を本誓とし、人々の所願に応じてもろもろの苦難を救い、幸福を与えてくれる菩薩。
 像高は一番と百番が最高で、十番が後背を含めて八十センチ、普通は六十センチから七十センチほどで、安置の方法は一番の観音は自然石の上に六角の竿を立てて、その上に石の蓮華座をのせ、座像の如意輪観音が置かれています。
 石材は地元にある多孔質安山岩が用いられていますので、細部までのきめ細かさというわけにはいきませんが、それぞれに変化をもたせ、表情も豊かで、この種類の石仏中での傑作といわれています。

寄進者

 寄進者の詳細は不明ですが、百番の台石の一面に「願主湯本中」とあり、ほかの面に新張、として八名の氏名を刻み、さらに佐久郡として六人が記録されていますので、これらの人々が世話人として活動したのではないかと推察されます。
 寄付者名は一番の台座に「施主村中、凡百番礎共」とありますので、一番の観音は新張村の一同が施主となり、他の百体の観音像の石材と礎の運搬などは新張村の人たちの労力奉仕になったのでしょう。
 そのほかの観音は大部分無記名ですが、寄進者の記されたものは、「江州竹生島」「城州喜峯寺」「上州田代村」など他県のものがあり、また諏訪、佐久、上高井など他郡を含み、小県の諸村に及んでいます。


石工

 石工は、一番と百番の台座には、「石工仲山暉雲」と石工の名が刻まれていますが、ほかには記したものがありません。現在東部町田中に住む石工の掛川氏の話によると、四代前の三沢伊兵衛が伊那の高遠から同僚数人と来住し、天保五(一八三四)年から製作にとりかかったといいます。それらの子孫が石工を継ぎ、鈴木氏、藪越氏、向山氏、伊藤氏、上野氏などが近在に定着しました。仲山曄雲は本名、中山亀八で、伊那の高遠葦沢村から弟の鶴さんと共にきて、この仕事に従事しました。三沢伊兵衛の娘と結婚して、一番から百番までを仕上げましたが、伊兵衛はその落成の報告を聞いて、「わがごと成れり」と喜んで生涯の幕を閉じたといいます。