水神の碑・相馬御風歌碑 |
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水神の碑・相馬御風歌碑水神の碑昭和23年に建立されたもので、尾崎咢堂の筆で「水神」と書かれてあります。峠の群馬よりにあります。相馬御風歌碑水神碑の10メートルばかり左に、相馬御風の歌碑があります。相馬御風相馬御風(そうまぎょふう)は、日本の詩人・歌人・評論家です。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や童謡の作詞者としても知られます。1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれます。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進みます。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊。明治1906年、早稲田大学を卒業し、片山天弦らとともに早稲田文学社に入り「早稲田文学」の編集を担当。当時、全盛をきわめた自然主義文芸運動の先鋒として、文芸評論の面で活躍しています。その一方で、三木露風、野口雨情らとともに早稲田詩社を結成し、「口語自由詩」を提唱し、自由な言葉とリズムによる新しい詩のメロディーを主張しました。 また、同40年には早稲田大学創立25周年に際し、大学や恩師に委嘱されて作詞した校歌「都の西北」は不朽の名作として今も歌い継がれています。大正初年にはトルストイの人道主義に傾倒し、『戦争と平和』など多数のロシア文学作品の翻訳本を出版しています。また、同5年3月、故郷糸魚川に退住を決意した告白の書といわれている『還元録』を出版し、友人・知人に配っています。 糸魚川に退住した御風は、ライフワークとなった良寛研究、執筆読書の生活を続けます。また、現在も親しまれている童謡「春よ来い」など、たくさんの名曲の作詞も手がけています。生涯で七千首以上といわれる自らの作歌活動のほか、短歌結社「木蔭会」を結成して郷土の歌人の育成にも努めたほか、文芸雑誌「野を歩む者」を通じて、ふるさとの自然を讃え愛しんでいます。昭和25年5月7日、突然脳いっ血で倒れ、翌8日逝去。享年67歳(満66歳)でした。 |
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