有島武郎終焉の地

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有島武郎終焉の地

 有島武郎は、東京小石川(現・文京区)に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子として生まれます。横浜に移り、4歳から横浜英和学校に通い、10歳で学習院予備科に入学し、19歳で学習院中等全科を卒業。その後、札幌農学校に入学。内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年にキリスト教に入信。農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後渡米。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受けます。さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れます。

 帰国後はふたたび予備見習士官や大学の英語講師として過ごしていましたが、弟の生き馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い同人誌『白樺』に参加。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍。1916年に妻と父を亡くしますと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年には『或る女』を発表しました。

 1922年、『宣言一つ』を発表し、北海道狩り太村の有島農場を開放。1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱くが、秋子の夫春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむ。そして6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げました。

 7月7日に発見されますが、梅雨の時期に一ヶ月以上遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたといいます。また師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余りの知人に居るならば、その者との交流を絶つ」と言明しました。

有島武郎の遺書

 永い永い思い出のみ残る。今朝は有難う。兄の熱烈なる諌止にもかかわらず私達は行く。僕はこの挙を少しも悔いずただ十全の満足の中にある。秋子も亦同然だ。私達を悲しまないで呉れ給え。母、子供達の余所ながらお見守りを願う。僕の著作の印税全部は将来三児にやってくれ給え。原、吹田、秋田、藤森其他諸兄にも手紙を書くべきだけれども此の際だから略す。兄より宜敷。山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い道を歩いたので濡れそばちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが、実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとは此の瞬間まで思わなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう。