神宮寺 |
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神宮寺長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢旧軽井沢6460267-42-3192 神宮寺参道の入り口には『表白山』『神宮寺』の石柱があって鈍色に光る石畳の参道を行きますと、境内に高さ15メートルほどの枝垂桜が濃い影を落しています。この寺は昔、旧碓氷峠の熊野神社付近にありましたが、寛文2年(1662)に現在の地に移されたといいます。 神宮寺神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院。日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教はまだ統合される事はありませんでしたが、平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めますと、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから神は仏の仮の姿であるとする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社が営まれるようになりました。鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主によって保護され、祈祷寺として栄えました。しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈によって、その殆どの寺院が神社に転向したか消滅したりして、急速に数を減らしました。現在は、残存した寺院の住職の努力によって再興されています。神宮寺の牛頭観音本堂の右手にいくつかの石仏などが集められており、その中に珍しい牛頭観音像があります。寛延年間(1748−1750)の建立で、両手を合わせ眼を閉じた可愛らしい表情の頭上には、小さな牛の首が見られます。神宮寺の境内と川端康成の「雪国」寒気の厳しい軽井沢で天然氷が生産されるようになったのは、明治14年(1881)頃からですが、大正12年(1922)には採氷業者が20軒になり(今は1軒だけだといいます)。氷の厚さは18センチ位、1枚が60キログラムにもなる氷が2000枚ほど生産され、夏の出荷時まで保存されたと言います。氷店の先にあった旧藤屋旅館には、昭和11年の夏、川端康成が訪れ、神宮寺の境内が見える小さな部屋で『雪国』を執筆しました。川端はその翌年、桜の沢に山荘を求めています。 |
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