水車の道 |
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水車の道明治時代に軽井沢に最初の別荘を建てたA.C.ショーらをはじめとする外国人宣教師たちは、ピクニックにいくお気に入りの場所や、いつも散歩する道につぎつぎと英語の愛称をつけていきました。旧軽銀座を迂回する形でほぼ平行に走るその小径は、水車の道と呼ばれています。軽井沢聖パウロカトリック教会のある通りです。水車は、もうありませんが、その昔は、「しっぽくそば」や「うどん」の粉を挽く水車でした。つるやの当主は代々「仲右衛門」を世襲し、隠居すると「作兵衛」を名乗って水車小屋を隠居所にしていたそうです。水車は「作兵衛水車」と呼ばれていたが、大正の中頃からはそういう呼び名も忘れられていったそうです。 (小川和佑著『堀辰雄 その愛と死』より) ちなみに水車の道の三叉路を北西に曲がるとさらに右に曲がる小径があります。かつて、堀辰雄さんが夏を過ごされた別荘があったところです。そして、さらに坂道をあがっていくと、水源地へと小径は続いていきます。 望月小太郎氏の令嬢義子さんによると、明治の終わりに、千坪程の土地を買い別荘を立てた望月小太郎氏(憲政会代議士が、直径一間位の水車をかけました。それが水車の道の名の由来で、橋の上から水車が見えたといいます。 (朝吹登水子編「わが心の軽井沢」1986年) 一方、つるやが明治時代、蕎麦屋もやっていて、そばを自家製粉するために水車をまわしたと言います。ただ、つるやの水車は明治の後期に、そばの倉庫等を取りこわして客室(別館と呼んだ)に改装した時に既になくなっていたそうです。ただ、水車の一部が大切に保存されていて、昭和46年の火事の時にも、幸いに持ち出すことが出来たので、それが現在、帳場に飾ってある外周板と、土間にある車軸なのだそうです。 |
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