浅間山荘事件記念碑(治安の礎)

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浅間山荘事件記念碑(治安の礎)

昭和47年2月に発生した連合赤軍による「あさま山荘事件」から30年。この事件は人質となった山荘管理人の妻の無事救出と、警察官2名の殉職と多数の負傷者、また一般人1名の死亡という結末で幕を閉じました。その事件を報じる新聞の見出しは「人質の無事救出」であり、警察官2名の殉職は小さくなっていました。

  当時のマスコミは、連合赤軍などの極左暴力集団を過激派と呼び、同情的な報道をし、成田空港反対闘争では、マスコミの車が、そのような暴力集団が使用するためのゲバ棒(角材)を運搬しているところを発見されたり、昭和46年8月に埼玉県の陸上自衛隊の朝霞駐屯地で起きた自衛隊員が殺害された事件では、犯人をかくまった新聞記者が裁判で有罪判決を受けたくらい左翼に同情的でした。


 ですから警察には、最後まで拳銃使用許可が下りなかったし、担当だった佐々淳行氏は、取材するマスコミから

「なぜ強攻策に固辞するのか」
「犯人たちを逃がせば人質は助かる」

と食ってかかられたとのこと。しかし、ライフルをもって自分の母親にさえ射撃する犯人を逃がすことなど、できるはずもありません。かといって拳銃は使えない。人質の命は危ない。あとは突撃のみですが、拳銃なしに突撃するには、クレーン車につるした鉄球で山荘の壁を破壊して人質の安全を確保するしかなかったのです。

 
 あさま山荘事件の顕彰碑「治安の礎」は事件の翌年の1973年にあさま山荘を後方に臨む別荘地の入り口に建てられました。碑の後ろには事件の教訓と犯人の凶弾に倒れ殉職された二人の警察官の功績を称えた文章が刻印されています。また、碑の右横には事件当時の様子が刻まれた銅板がはめこまれています。  逮捕された連合赤軍5人は、いずれも氏名等を黙秘して年齢などもわからない訳ですが、「犯人の中に少年がいるかもしれないのに顔写真をなぜ掲載した」と騒いでも、死んだ警官に対しては一言もなかった人たちもいました。なんとも酷い話ですが、そういう時代の犠牲者となった殉職者の警察官のご冥福を祈りたいと思います。