中西悟歌碑

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中西悟歌碑

 自筆の詩「ここぞたかはら」 の全文が彫られ、すぐそばに胸像が建立されています。胸像には小鳥がとまっています。中西悟堂は詩人であり歌人。野鳥研究家として自然保護運動を続け、日本野鳥の会を創設し、愛鳥運動を進めてきました。詩碑は1980(昭和54)年に、胸像は1986(昭和61)年にそれぞれ野鳥の森入口に建立されています。



中西悟堂

 1895年(明治28)、石川県金沢市の長町に生まれる。生後まもなく父母が死亡し、伯父・悟玄の養子となります。1907年(明治40)、養父と祖母とともに神代村(東京都調布市)の祇園寺に移住。1911年(明治44)、深大寺にて僧籍につきました。悟堂とはこの時の法名。翌年、天台宗学林2年に入るり、短歌を始め、次第に詩人と交わるようになり、その関心は短歌から詩へ移りました。

 1926年(昭和元)、千歳烏山(現在の東京都世田谷区烏山)に移り住み、作家をめざし田園生活に入ました。3年半の生活を経て杉並区井荻町の善福寺風致地区に移り、野鳥の他に昆虫や淡水魚などの生態観察に取り組みました。この頃から日本全国の山々を巡り野鳥の観察を行う。一方自宅では野鳥を放し飼いにして注目を集めました。

 1934年(昭和9)、鳥学者内田清之介や黒田長礼、鷹司信輔、山階芳麿。民俗学者の柳田國男、荒木十畝、杉村楚人冠、新村出、戸川秋骨などの文化人の後援を得て日本野鳥の会を創立。1936年(昭和11)、竹野家立、籾山徳太郎らとともに、鷹狩の保存・振興のため、日本放鷹倶楽部の設立に発起人として参加しています。

 1944年(昭和19)には、会員数はおよそ1800名となりました。その後、一時は東北に疎開したが、戦後は再び西多摩地区に戻り、1954年まで暮らしました。1947年(昭和22)、戦後は休止状態にあった日本野鳥の会を再開。カスミ網禁止の法制化、サンクチュアリーの設置など、自然保護や野鳥保護活動に尽力し、鳥獣保護法の制定にも貢献しました。

 それまで日本人の野鳥とのかかわりは飼い鳥として籠の中の鳥の鳴き声や姿を楽しむか、狩猟や食肉の対象としているものでした。悟堂はそのような習慣をやめて「野の鳥は野に」と自然の中で鳥を楽しむことを提唱しました。その考えには少年時代からの仏教教育に基づいた万物に命が宿るといった自然観の影響が見られます。日本には「花鳥風月」の言葉どおり鳥をテーマにした文芸、絵画の歴史は長い。悟堂は短歌や詩などの文芸あるいは絵といった方法で、鳥の愛護と保護を一般大衆に訴える雑誌を構想しました。