内村鑑三資料展示室

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内村鑑三資料展示室・石の教会

内村鑑三資料展示室

 軽井沢を愛した内村鑑三に関する資料を展示。直筆の書や手紙などもあり、自由と平和を重んじたその思想と活動の一端にふれることができる。

長野県北佐久郡軽井沢町星野 地図を見る
アクセス JR軽井沢駅→車15分
内村鑑三資料展示室 TEL:0267-45-2288




石の教会

明治期のキリスト教者・内村鑑三の「無教会思想」から生まれた、世界でも希少な教会。周囲の景観に溶け込み、自然との融合を感じさせる。地下には内村鑑三資料展示室がある。






内村 鑑三

 内村 鑑三、1861年3月26日(万延2年2月13日)に生まれ、明治11年(1878年)6月2日には、米国・メソジストキリスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受けます。明治14年(1881年)、札幌農学校を卒業し、北海道開拓使に勤めます。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走しました。翌年に札幌基督教会を創立します。

 明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡りますが、拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅します。この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒と親交を持ちます。翌年9月にはマサチューセッツ州のアマースト大学に選科生として編入します。
 在学中、同大学の総長であり牧師でもあるJ.H.シーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験しました。明治20年(1887年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受けます。続けてコネチカット州のハートフォード神学校に入学しますが、神学教育に失望し、明治21年(1888年)1月退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。

 帰国した明治21年9月から新潟県の北越学館で勤務したのち東京に戻り、東洋英和学校、水産伝習所などで教鞭を執ります。明治23年(1890年)から第一高等中学校の嘱託教員となりましたが、翌・明治24年(1891年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼をおこなわなかったことが同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化します。
 この後、泰西学館、高等英学校、熊本英学校、名古屋英和学校と教壇に立ち、一時期は京都にも住みました。この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒のなぐさめ』、『求安録』、『余りは如何にして基督信徒となりし乎』を初め、多くの著作・論説を発表しました。

 明治30年(1897年)に上京、黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し、『萬朝報』英文欄主筆となりました。また、明治31年に『東京独立雑誌』を発刊し主筆となり、明治33年には『聖書之研究』、明治34年(1901年)には『無教会』を創刊しました。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れます。

 日清戦争は支持していた内村でしたが、平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになります。萬朝報も当初は非戦論が社論でしたが、明治36年(1903年)10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じますと、内村は萬朝報を離れることとなりました。

 幸徳秋水ら社会主義者との関係が深かった内村ですが、後年にはその社会主義をも批判しています。大正4年(1915年)、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではありません。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神です。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えません。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張し、社会主義を批判しました。