分去れの碑

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分去れの碑


 北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野など関西へむかう分岐点となりました。その昔長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来です。

 分去れの三角地の頂点に小さな道祖神。その奥に延宝七年(1679)の道しるべ。中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。元は地蔵尊の台座であった四角のくり抜き石が、その次にある道しるべ。

「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」

 更科は月の名所、吉野は12年ほどの間皇居があったことから人々は御吉野と呼びます。桜の名所で、このあたりに咲く山桜を吉野桜といいます。台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれています。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されています。

 この「分去れ」の三角地帯に立つ石塔、石仏を見てみましょう。三角の頂点には「北国街道道標」があります。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」左側面は「従是中山道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年(1679)三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われます。



 続いては、「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」と彫られる「森羅亭万象の歌碑」です。森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれています。

 その隣に手水鉢のような形の道しるべ石があります。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という風流な道案内の歌が彫られています。他の三面にはここから各地への里程が示されています。いくつかあげますと、「江戸江(へ)三八里」「御岳(木曽)江三三里半」など1番遠い所は「金毘羅(讃岐)江一五〇里半」でした。

 この道しるべ石の後ろには、よく目立つ常夜灯が立っています。中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られています。

 その横、北国街道に面してぽつんと立つ観音像は、郷土史家によると鳥羽天皇の天永年問い(1110〜12)に彫像された勢至観音菩薩で、これが確かなら追分の分去れの石仏中、最も大きく古い時代のものとなります。

 分去れの一番奥には、優美な姿でたつ観音立像があります。正面に「牛馬千匹飼」とあるように馬頭観音像で安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものといわれています。背丈が高く、頭部顔面あたりが異国風ですので、こちらがマリア地蔵と勘違いしたほどです。

 中山道は分去れから国道18号線を斜めに横切って小田井宿へと続いています。国道を横断するとゆるやかな下り坂になりますが、その坂道は笑坂と呼ばれています。

 作家・後藤明生に『笑坂』という作品があります。土地の老人から笑坂の由来を聞いています。小田井宿方面から旅人がやって来ますと、追分宿の燈が見えるので思わず笑顔になることから笑坂と名づけられたというのです。追分宿から小田井宿までの1里半(約6キロメートル)は、農家なども見えず荒涼とした原野であったといいます。