藤村記念館 |
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藤村記念館藤村記念館は、藤村の小諸時代を中心とした作品・資料・遺品が多数展示されています。建物は日本最高峰の建築家谷口吉郎氏の設計によるものです。昭和27年2月、小諸義塾及び女子学習舎の関係者を以って組織する藤村会と小諸町では、藤村の遺墨、遺品並びに関係資料を収集保管し、教養と調査研究等に資する目的のもとに藤村記念館の設立を決めました。 以後、建設位置の選定、敷地交渉、寄付金募集、遺品・遺墨の収集等を行い、東京工業大学教授谷口吉郎博士に設計を依頼し、昭和32年11月、高雅で簡素な建物が懐古園に竣工しました。昭和33年4月19日に開館し、翌34年6月、藤村会の寄付により小諸市に移管され、以来小諸市立藤村記念館として運営し、今日に至っています。 384−0804 長野県小諸市丁315番地(懐古園内) 0267−22−1130 開館時間 午前8時30分〜午後5時 休館日 年末年始(12月29日〜1月3日)12月1日〜3月中旬の毎週水曜日 観覧料 一般:200円 小中学生:100円 島崎 藤村1872年(明治5年)2月17日(新暦3月25日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村に生れました。父は正樹、母は縫。四男でした。生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で、祖は三浦半島の津久井の出。父の正樹は17代当主で国学者でした。1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学びます。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父である武尾用拙に『詩経』などを学びました。さらに三田英学校、共立学校など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受けます。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁りました。明治学院普通部本科(現在の明治学院大学)第一期卒業生で、校歌も作詞しています。この間1886年(明治19年)に父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大でした。 卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となります。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文學界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表しました。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職します。その後関西に遊び、吉村家に戻ります。1894年(明治27年)、女学校に復職しましたが、透谷が自殺。さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『春』で描かれます。 1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞しましたが、この間に詩作にふけり、第一詩集である『若菜集』を発表して文壇に登場しました。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並称されました。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていきます。 彼の詩のいくつかは、歌としても親しまれています。『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されています。また、同年に発表された国民歌謡「朝」、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲「千曲川旅情の歌」も同じ詩集からのものです。 1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生れました。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回します。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図りました。 1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛されました。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになります。 1907年(明治40年)に発表した「並木」は、孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こします。1908年(明治41年)『春』を発表、1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去しました。このため次兄・広助の次女である姪・こま子が家事手伝いに来ていましたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と過失を犯し、やがて彼女は妊娠します。翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまいます。1918年、『新生』を発表し、この関係を清算しようとしました。このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡りました。なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もあります。 1927年(昭和2年)、「嵐」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『中央公論』にて連載されました。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられました。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めました。1940年(昭和15年)に帝国芸術院会員、1942年(昭和17年)に日本文学報国会名誉会員。米英との戦争が迫る中、1941年(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣・東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画しました。 1943年(昭和18年)、「東方の門」の連載を始めましたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去しました。最期の言葉は「涼しい風だね」でした。 |
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