力士雷電生家

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力士雷電生家


東御市滋野乙1981-2

 雷電が大関の時建てた家で、屋内に稽古土俵や、近隣の住人に見物させるための二階座敷などがあります。孝心に厚かった雷電は、父半右衛門が生前、酒が好きだったので、父の死後、石塔を建てて供養するのにあたり、冥土の旅には酒を不自由させない心遣いから、笠石には盃を、棹石には酒樽を、台石には膳箱を形どって造らせています。
 旧北国街道牧家集落に、佐久間象山撰文ならびに書による「力士雷電之碑」が建っています。僅かな空地に2つの碑があり、1つは南面(新碑)し、1つは西面(旧碑)しています。以前は、この碑片を欠き取って身につけていると、立身出世するとか、勝負事に勝つとかの迷信が生まれました。そのため、欠いて持ち去る者が多く、碑文が読めなくなりましたので、新しい碑が建てられました。
 この生家は、昭和になって復元されたもので、一般公開は1984年から。雷電直筆とされる「諸国相撲控帳」(雷電日記)、「萬御用覚帳」の原本の写しなどもここで保存されています。生家の見学は、午前9時〜午後5時までです。(年中無休)




雷電爲右エ門(1767年−1825年4月9日)

 力士生活21年、江戸本場所36場所中(大関は27場所)で通算で喫した黒星がわずかに10、勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、古今未曾有の最強力士。横綱免許は受けなかったが富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もあります。
 信濃の豪農関家に生まれ、幼名を太郎吉。少年期から巨体、怪力にまつわるさまざまな伝説が残ります。例えば、15歳のころのこと、中仙道の碓氷峠を荷馬を引いて歩いていたところ、向こうから大名行列がやってきましたが、道は狭く戻ることもできなかったため、太郎吉少年は荷馬を担ぎ上げて大名行列を通したといいます。やがて相撲好きな隣村の庄屋上原源吾右衛門の目にとまり、彼の私塾で相撲のほか読み書きなどを習った、と伝わっています。

 天明4年(1784年)9月、地元に巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右エ門の目にとまり、彼とともに江戸へのぼります。江戸では当時の第一人者谷風梶之助の預かり弟子となって、初土俵までの6年を過ごします。この間、将来の有望性をみこまれて、出雲国松江藩松平家に抱えられます。初土俵前から士分への抱え上げは異例でした。初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わります。

 現役時代の体格は、身長6尺5寸(197センチ)、体重46貫(172キロ)の筋肉質な巨人だったと伝わります。本場所登場は寛政元年(1789年)7月の大坂が初見。江戸では寛政2年(1790年)11月、いきなり西方関脇に付け出しで初土俵。横綱免許の小野川喜三郎と預かりの相撲を取るなど強者ぶりを見せ、この場所で8勝2預と現在でいう幕内最高優勝を果たします。以来、段違いの相撲を見せ、対戦者を圧倒しました。

 江戸相撲では寛政5年(1793年)11月場所から約7年にわたり出場した11場所全ての場所で優勝相当成績を記録。その後も引退までに出場した場所で7連続と9連続で優勝相当成績を記録。通算で優勝に相当する成績を残すこと28回(柏戸との優勝同点の都合上25回ともいわれる)のうち全勝が7回という驚異的なものでした。優勝回数は年2場所制の時代にこれを上回るものはついに現れることがなく、年6場所制に移行した現在であってすらも大鵬(32回)と、千代の富士(31回)の二人が上回ったにすぎません。全勝記録は2場所制では双葉山(8回)が追い抜いたのみで、6場所制でも大鵬(8回)だけが越え、北の湖(7回)と千代の富士(7回)も追いついたものの抜くことは出来ませんでした。連覇記録は朝青龍(7連覇)をも超えています。

 勝率9割6分2厘は横綱最高勝率の初代梅ヶ谷(9割5分1厘)をも凌ぎます。連勝記録は比較的短い44連勝ではありますが、それでも史上7位(上は双葉山、谷風、初代梅ヶ谷、太刀山、千代の富士、大鵬と歴代の最強横綱を含む)。単独の連勝記録ではやや譲る代わりに、30連勝以上を4回記録しています。雷電以降でこれを達成したのは6場所制での大鵬のみです。一場所で2敗することはついになく、同じ相手に2度負けることも一人(花頂山)を除いてませんでした。あまりの強さに突っ張り、張り手」かんぬき、鯖折りを禁じ手とされたという逸話が有名です。

 文化8年(1811年)2月の全休を最後に44歳で現役を退き、松江藩相撲頭取に任ぜられます。文化11年(1814年)大火で焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力しますが、この鐘の形状などが幕府上役の不興を買い、江戸払いに処せられます。文政2年(1819年)には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任。晩年は妻八重の生地下総国臼井(現千葉県佐倉市)で永く暮らし、ここで亡くなりました。享年59。その死の詳細を伝える資料は少ないです。墓所は赤坂の報土寺。他に、生地の長野県東御市の関家の墓地、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西行寺にも雷電の墓と称するものがあります。当時の力士としては高い教養の持ち主でもあり、「諸国相撲控え帳」、「萬相撲控帳」を残しました。これは相撲に限らず、江戸の風俗を知る上で貴重な資料にもなっています。

 雷電が横綱免許を受けなかったことは、相撲史上最大の謎とされています。一般に、当時まだ横綱が大関の中の強豪という認識がなかったため、という説が広く知られています。しかし、すでに横綱免許を受けた小野川を相手に互角以上に渡り合ったことから、これが疑問視されます。また、当時の力士は藩のお抱えであった為、藩の持つ力によって昇進が左右されることもあり、雷電もその例外ではなかったという説もあります。




雷電顕彰碑

 佐久間象山の撰文、揮毫により文久元年(1861年)建立されます。碑文に「雷電没後27年」とあるのは「37年」が正しいですが、当時幕府に蟄居謹慎の処分を受けていた象山が、それ以前の仕事と見せるためにあえて誤って書いたもの。突っ張り、張り手、閂を禁じ手とされた逸話も述べられています。 その石片は勝負事に利益があるとしてたびたび削り取られ、明治期には碑文はもう読めないほどになっていたため、勝海舟、山岡鉄舟らの発起で新碑が建立されました。現在新旧の両碑がT字型に並び立っています。