山浦真雄宅跡

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山浦真雄宅跡


http://www.city.tomi.nagano.jp/manabu/bunkazai/yamaura_taku.htmlより
東御市滋野甲1939番地

 山浦真雄宅跡は、千曲川の断崖に臨んだ景勝の地にあり、伝説で有名な"牛に引かれて善光寺まいり"の「布引の岩」が千曲川をはさんだ対岸の絶壁に眺められます。敷地内には、真雄・清麿兄弟を偲ぶ山浦兄弟生誕碑があり、兄真雄が、「老の寝ざめ」を著わした旧居宅跡と鍛冶場(間口2.04m・奥行1.96m)および石造の水瓶2基が残っています。真雄は、文化元年(1804)2月11日この地で生まれ、少年の頃から剣道を学び、23歳で江戸に出て一刀流を修めています。文政11年(1828)3月、25歳で江戸の水心子正秀の弟子秀世を尋ね、作刀の手ほどきを受けました。翌年、上田藩の刀工、河村寿隆の門をたたいています。天保10年(1839)、36歳で小諸藩主牧野氏より佩刀(身に付ける刀)製作の命を受け小諸に出て藩工の生活に入っています。

 弘化4年(1847)中国筋へ修業の旅をすること1年、嘉永元年(1848)4月上田城主松平氏の要請によって上田城下に移りました。以来45歳から50歳までの円熟した5年間に名刀を残しています。嘉永6年(1853)松代藩主真田幸貫に招かれ藩工となり、長巻百振りの製作の命を受けています。一子兼虎も呼び寄せ立派な作品を多く残しています。【明治4年(1871)隠居、この地赤岩で悠々自適・明治7年(1874)71歳で没。】真雄は信州刀剣界で優れた鍛刀術を残し、立派な人格は清麿・兼虎ら山浦一門刀工を育てています。


 山浦真雄は、文化元年(1804)、現在の小県都東部町大字滋野字赤岩の名主山浦昌友の長男として生まる、弟に清麿がいる。文政十一年(1828)水心子秀世に入門して山浦正則と銘す、文政十二年(1829)に上田藩の刀工河村寿隆に入門。弟の清麿はこのとき十七歳でしたが、兄の誘いに応じ作刀の道に入る。その後、真雄は藩お抱えの刀工として、清麿はひとり立ちの刀工として、それぞれ異なった道を歩みました。

  真雄は小諸藩工、上田藩工、時代を経て安政五年(1858)松代藩工となります。明治四年(1871)息子の刀工兼虎に家督をゆずり、自分の生涯を回想し『老いの寝ざめ』を執筆しました。そして明治七年(1874)郷里赤岩で病を得、その生涯を閉じました。享年七十一歳。
真雄の作刀は実用面からみても刃味が抜群であり、刃味だけから言えば弟の清麿にも優るであろうと言われています、嘉永六年(1853)に松代城下で行われた刃味試しにおける真雄の作刀の強靭さは今に至るまで語りつがれています。