万座温泉・湯畑

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万座温泉・湯畑

標高1800メートルの原生林に包まれた高山温泉郷。一日およそ五百四十万リットルいう豊富な湧出量を誇り、泉質は二十七種類を数える硫黄泉。効能も多彩で、重荷呼吸器病や胃腸病、リウマチや皮膚病に効くといわれ、難病を治したというエピソードも数多く伝わる名湯。美肌効果も高く、女性にも圧倒的な人気を誇ります。




万座温泉の歴史

 永禄五(1562)年に、土地の豪族、羽尾入道が万座温泉入湯の留守中に、鎌原城主に急襲され、滅ぼされたという記述が、沼田城主真田伊賀守の家臣が著述した『加沢記』に残されています。四百年も昔に、豪族の一行が逗留したという事実は、自由宿泊、自由入湯のこの時代に、万座温泉が多くの地元民に利用される共有の温泉であったことを物語っています。また『加沢記』の写本にはこんな記載もあります。当時の吾妻八湯の案内に、草津、四万、沢渡に次いで、万座が四番目に記されています。
「万座の湯、この湯は深山の谷間に在り、牛馬の交通無し、人の交通また容易ならず、湯の効能は頭痛、喘息、血の道、せん気、胸こびるものなどは、一度行けば起こらざるなり」
と書かれています。当時から万座の不便なことと、浴効のあることは広く知られていたようです。

 温泉のシンボルである万座薬師堂が創建されたのは、正徳五(一七一五)年。門貝村の古文書である万座風土記に記述され、建築費は四両二歩。そのうちの二両二歩は村が負担し、二両は浴客の寄付金でまかなわれたと書かれています。

 明治の初め、田代の橋詰久兵衛なる人が旅舎を建て、浴客の便宜を図りました。馬喰を生業とした久兵衛は信州、上州と広く歩いて商売をしましたが、早逝した妻の忘れ形見の幼い娘のふきを連れて万座に入り、木賃宿を開きました。
 当時、伊勢参り道中の宿賃が弁当付き一泊、中山道が十三銭、東海道が十五銭という時代でしたが、万座のこの宿では、夏秋四月間、一泊一銭という安さでした。その時、ふきはわずか五歳。隣近所もない一軒家で父娘二人だけの生活の寂しさに堪えかねて、ふきは家に帰ると泣きだしてとまらなかったといいます。明治六年に湯小屋に「日進館」と名付け、商売に打ち込みました。当然、父亡きあとは、ふきが湯宿を継承しました。

 万座に旅館が二軒になったのは明治三十年のこと。それは長野県山田村の出身の中沢たつが建てた「常磐屋」でした。明治二十五、六年ごろ、山田村にある山田温泉湯本旅館の女中、中沢たつが日進館に来て、
「女中に雇ってください」
と申し込んだのが発端。しかし、女中を雇うほどの宿ではないからと橋詰め父娘は断りました。

 あきらめきれないたつは、日進館の近くに笹小屋を建て、姪と二人で居酒屋兼豆腐屋を始め、それをもとでに借地をし、郷里の長野県常磐村の親類から金策も取りつけ、ついに明治三十年の夏、日進館に隣接して常磐屋を新設することに成功しました。以来、二軒の主人は共に女同志となり、協力したり、競争をしたり、けんかをしたりしながら、万座温泉は大正十年までは、小規模ながらなかなかの活況ぶりを誇っていました。

 大正十年十二月二十八日、日進館の橋詰ふきは万座に冬住みの最中に、こたつで寝たまま焼死しました。かくて、女傑橋詰ふきは、万座創業の途中でその生涯を閉じることになりました。

 かたや、常磐屋は大正十二年、たつは兄の娘、中沢豊野(俗称豊枝)を養女に迎え、さらに婿も入れて、大正時代には日進館を凌ぎました。しかし、戦時中、箱根土地と燃料、食糧の生産事業の共同経営を始めて失敗し、損金の負担に堪えかねて、ついには常磐屋を手放すことになりました。
 栄は自分がほとんど万座を留守にして、近親者に一、二年ほど賃貸するという経営方法を用いたために、結局は経営者が転々と代わるという結果になってしまいました。栄氏の姉、豊枝は常磐屋の別館である、後の大和屋に移りました。常磐屋はその後、温泉ホテルと改名されましたが、昭和四十年代に入って日進館に譲渡され、現在は日進館がこれを経営しています。

 昭和二年には豊国館が開業されて、万座の旅館は三軒となりました。館主である水野豊氏は日本弁護士会会長で、俳句界の重鎮でもありました。

「ほととぎす 鳴くよ招くよ 湯の万座」

 この句が全国に広がり万座も有名になりました。館の支配人は豊氏の弟の水野富作氏が務めました。日進館は所有者の黒岩英太郎氏が直接経営者となり、経営主任は二男の政七氏があたりました。

 昭和十年は常磐屋の別館大和屋が開業し、日進館として松屋も開業の運びとなり、万座温泉の旅館は計五軒となりました。この年の冬から日進館は冬のスキーの営業を試験的に始め、毎日芳ケ平、あるいは渋峠まで客の送迎を行いました。

 昭和二十四年には上信越高原国立公園に指定され、万座もその中に指定されました。当時の万座温泉各経営者の願望は、交通路の開発整備と車の導入でした。開業以来四十年にして、なお夏と秋の四ヵ月間、牛が通い、五十年後にぼつぼつ馬も通う程度となり、五月から六月に入れば、毎年、万座中総動員で峠の残雪掘りにかかって、一日も早い牛馬の通行を待望したものでした。

 さらに冬の長い万座へは、ツアースキーに頼るほかは出入りの方法がなく、遭難防止の必要性から弓池と渋峠にヒュッテが建てられました。この種の施設は県支出三分の二、地元の負担が3分の一比率が原則であったが、途方もない奥地のため、県の見積もりよりは大き
く予算をオーバーしてしまいました。その超過分を万座がおおかた負担したために県からの心証を良くしたと言われています。

 このような血のにじむような努力と、車乗り入れの悲願は猛運動となって、時勢を動かし、群馬県、長野県、長野電鉄、国土計画興業、草津営林署、厚生省、地元嬬恋村など、これはと思う機関を日進館の経営主任である政七氏を筆頭に奔走し、ついに三ヵ年の月日をかけて、昭和二十七年に、バスの乗り入れが実現することになりました。

 昭和三十八年には「万座温泉観光協会」が発足した。これは旅館外の業者も全員参加の組織で、会長に国土計画興業の荻原喬茂所長、事務局長に宮本四郎氏を専任し、以後観光面での強化と集客への前向きな取り組みが図られています。

 明治、大正と日進館と常磐屋の女傑として鳴らしたふき、たつの両者さえも「冬の万座に雪さえなけりゃ、寒さはどんなにひどくとも」と恨んだ万座の雪は、草軽電鉄が草津に通じてからは、白根山をめぐるスキーが盛んとなり、皮肉にもスキーで客を集め、人気を呼ぶ現在の万座の貴重な財産となっています。
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