的岩 |
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的岩四阿山の中腹に、的岩又は屏風岩ともいわれている珍しい岩がある。建久年間、浅間野に狩にきた源頼朝は、この珍しい岩を的にして矢を射られたという。鳥居峠から四阿山に向かって尾根伝いに北上すると3kmの地点にこの岩脈がある。上州側では「的岩」信州側では「屏風岩」と呼ぶ。また、上州側ではこの辺一帯を「天狗の露地」とも言っている。 的岩伝説的岩を発見した源頼朝は、屈な的岩であるというので武を練る心から弓矢の力を試すことにした。狩場に集まった1万人の中から弓矢達者100人を選ばせ、的岩に10個の的を作らせ、各々その技量を揮わせた。 しかし、どうしたのか誰も的を射抜くものがない。そればかりか、矢は的に届かないうちに落ちてしまう。大将頼朝は頗る不機嫌であった。そこへ1人の勢子が現れて、自分なら握り飯で、的を射抜いてみせると広言を吐いた。頼朝はその勢子に向かい、 「早速言う如くせよ。若し的を抜くことができたら恩賞を取らせるであろう」 といった。勢子は、背負袋から握り飯を取り出して右手にそれをつかみ、心の中で何か呪文を唱えてから身構え、的に向かって勢い良く投げつけた。 握り飯は的に当たっただけでなく、その余る勢いに厚い岩を貫いて、岩の破片が火花をあげて四方へ散った。的岩には2メートルにも余る大穴があいて、信州の方の空が青く見えた。驚いていると、その勢子は雲に乗って吾妻山の峰に走った。 頼朝は、これは吾妻山の山霊が勢子に化身して、我の武を奨め給うたのであろうと、祭壇をもうけて鏑矢を供え、武運長久を祈ったという。 シリーズ嬬恋村の文化と自然 的岩を訪ねる『嬬恋村誌』に的岩についての記載がある。要約すると、「建久年間、浅間野に狩りに来た頼朝は、この岩を見て珍しく思い、岩を的にして矢を射させることにした。この話を聞いた力自慢の男が、・・中略・・持っていた握り飯を、岩を目掛けて投げつけた。岩には大きな窪みができた。その大きさは3尺ばかりだった。」と、的岩に係わる言い伝えである。勿論、実話ではない。 この的岩を、昨秋、上下水道課の宮崎芳弥係長の案内で、滝沢益男文化財調査委員、教育委員会黒岩則行スポーツ文化係長、郷土資料館熊川紀世彦主任、そして筆者等で訪れた。鳥居峠から管理用道路を長野県との境に沿って進む。終点に達するといよいよ登山道となる。1キロ程の急峻な道を約45分登ると、あたりは急に開けてくる。立ち止まって前方の樹間を見つめると、城壁のような巨大な岩が屹立している。的岩である。 この的岩は、的岩山と吾妻山を結ぶ尾根上、標高1769メートル地点に、北より東約30度の方向を軸として直立する。その長さは、約200メートル、高さは20メートルに達する。厚さは2〜3メートルと薄い。正に、巨大な屏風を思わせるものがある。その構造は、注伏節理の発達が著しく、長さ2〜3メートルの六角柱状の俵を積み重ねたような感じでもあり、頂上へ向かっては階段状の構造も見られる。 岩質は、含橄攬石複輝石安山岩とされる。その成因は、地殻の中のマグマが、その上にあった火山砕屑岩層の割れ目に沿って、板状に貫入し凝固した。それがその後、侵食によって周囲の脆弱な部分が排除され、硬質な本岩のみが地上に露出したものとされる。 その眺めは、壮観であると同時に自然の妙味を感じさせるものが十分にある。また、火山地質学的にも非常に貴重なものとされ、昭和15年には国の天然記念物に指定されている。 ところで、この所在地は、明らかに群馬と長野との県境にありながら、どうしたことかその所有者は、「真田町外一市一町共有財産組合」とあり、その管理は「真田町」とされている。 的岩は少なくもその半分は、嬬恋村の行政区にありながら、「嬬恋村の文化財」としては、認定されていないのである。 松島榮治先生の講義録より |
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