松島榮治先生の論文集
■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
@黒色磨研注口土器
A敷石住居跡
■修験道関係資料の調査
@万座温泉の“礫石経”
A華童子宮跡
B三原出土の経筒
C今宮白山権現
D熊野神社の奥ノ院
■埋没村落「鎌原村」の調査
@埋没した鎌原村
A鎌原村の発掘
B発掘調査の成果
■峠を越えての文化の流入
@縄文文化繁栄の背景
A修験道隆盛の背景
B鎌原村の生活文化の背景
■おわりに
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@黒色磨研注口土器
今からおよそ3500年前の、縄文時代後期の配石遺構の底部から、無傷の状態で大小2個で発見されたものである。この2個の土器は、大きさこそ異なるが、形・文様・焼成など大同小異で、おそらくセットとして作られ使用されたものであろう。その大きさは次の通りである。
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高さ |
幅 |
口径 |
底径 |
大 |
23.4 |
16.5 |
0.6 |
0.6 |
小 |
16.0 |
11.3 |
4.9 |
4.9 |
この数値をもとに、この2つの土器の造形についてみると、この2つの土器の、幅と高さの比はほぼ1対1.4(√2)であり、また、大小の高さの比も、ほぼ1対1.4(√2)であることが分かる。すなわちこの2つの土器は、1対1.4(√2)の造形なのである。
ところで、この1対1.4(√2)の矩形は、われわれが始終見慣れた形の矩形なのである。例えば、A4とかB5とか一般的に使用されている用紙のサイズは全てこれに依っている。また、かつて大工さんの使用していた曲尺の表裏には、この比が刻まれており、これを“裏尺の比”と呼び、この比率で構成れた矩形は”裏尺矩形”とも呼ばれ、家屋の建築などに利用されていたのである。
ここに指摘しておきたいことは、縄文時代の後期中葉(加曽利B1式)の頃、嬬恋村地域に生活していた縄文人はこのように高さと幅の比を1対1.4)で、1個ならともかく2個まで、さらに相互の高さの比を1対1.4(√2)で創出していた事実である。
そこには理屈を抜きにして、今から約3,500年前、嬬恋の地に生活していた縄文人は、現在に通ずる感性の持ち主であったと言えよう。いや、現代人は縄文人の感性を引きずっているに過ぎないと言うべきかも知れない。
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