松島榮治先生の論文集
■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
@黒色磨研注口土器
A敷石住居跡
■修験道関係資料の調査
@万座温泉の“礫石経”
A華童子宮跡
B三原出土の経筒
C今宮白山権現
D熊野神社の奥ノ院
■埋没村落「鎌原村」の調査
@埋没した鎌原村
A鎌原村の発掘
B発掘調査の成果
■峠を越えての文化の流入
@縄文文化繁栄の背景
A修験道隆盛の背景
B鎌原村の生活文化の背景
■おわりに
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D熊野神社の奥ノ院
嬬恋村門貝に所在する熊野神社背後の急峻な斜面を70メートルほど登った所に岩窟がある。この岩窟の正面にあたる奥壁面には、大日如来を示す梵字が刻まれている。その左壁には、仏種子を表す梵字の下に「□保三年大才己未口月上旬」との銘文があり、右壁の仏種子を表す梵字の下には「太郎」と力強く刻まれている。
このことは、文保3年(1319)修験の行者がここに籠もり修行するなどしたが、やがて、ここが修験道の拠点となり、その山裾の地に現存する熊野神社が祀られることとなったと思われる。
なお、この熊野神社の参道入り口右側には、高さ約4.2メートル、下幅5.1メートルほどの安山岩の巨岩があり、その表面上部には縦横20センチ前後の大きさで、力強く5つの梵字が刻まれている。その中で最も顕著なものは上部3字で、三角形の頂点にあたる部分には「キリーク(阿弥陀如来)」、底辺の右端が「サ(観音菩薩)」、左端は「サク(勢至菩薩)」である。他にサクの下方に「バイ(薬師如来)」、サの下方には「カー(不動明王)」が刻まれている。
このことによって、巨岩に刻まれた梵字は、いわゆる“阿弥陀三尊”と、他に薬師・不動の二尊を併せた五尊であることがわかる。ところで、この岩に梵字が刻まれた時期は、記年銘がないことから明らかではない。しかし、その行為や書体などから中世期に逆上ることは確かである。
熊野神社奥ノ院の岩窟、神社参道入り口の巨岩の刻まれた梵字は、ここに、鎌倉時代末期にまで逆上ると考えられる修験道の信仰と修行のあったことを雄弁に物語っている。
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