はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
松島榮治先生の論文集

■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
 @黒色磨研注口土器
 A敷石住居跡

■修験道関係資料の調査
 @万座温泉の“礫石経”
 A華童子宮跡
 B三原出土の経筒
 C今宮白山権現
 D熊野神社の奥ノ院

■埋没村落「鎌原村」の調査
 @埋没した鎌原村
 A鎌原村の発掘
 B発掘調査の成果

■峠を越えての文化の流入
 @縄文文化繁栄の背景
 A修験道隆盛の背景
 B鎌原村の生活文化の背景

■おわりに

B発掘調査の成果

 鎌原村の災害は、比較的新しい時代のことであり、その状況を示す文書や記録類も多く、また言い伝えもある。しかし、発掘調査によって得た知見は、その多くが文書や記録では知ることのできなかった新事実であり、また、言い伝えなどとは異なるものであった。

 例えば、十日ノ窪の埋没家屋や延命寺跡からは、多くの生活用品が発見された。それらは、衣類・食器・家具など衣食住にかかわるもの、農具や貨幣など経済生活にかかわるもの、文房具・判子など社会生活に係わるもの、さらに、仏具など信仰に係わるものなど、多岐にわたっており、天明3年時の鎌原村の生活を彷彿させるものがある。それらは、我々がこれまで考えていたものよりは、はるか豊富であり、しかも、優秀なものが多く、意外と思われるものが目立つのである。

 中でもビードロ鏡の存在は、その1つである。江戸時代の考証家山東京山の『歴世女装考』によれば、ビードロ鏡が、江戸市中に出回り、比較的豊かな商人たちに珍重されたのは、天明の頃からせいぜい20年を逆上らないものと考えられるが、それを余り下らない時期に鎌原村の人たちは、銅製の鏡に代えて、ビードロの鏡を使用していたのである。

 陶磁器の使用のされ方もまた意外であった。十日ノ窪埋没家屋、延命寺跡の庫裏と推定される位置からは、百数十点にのぼる陶器や磁器の出土があった。陶器は17世紀の中頃、美濃の窯で焼かれたものをはじめ、その大部分は、美濃・瀬戸で生産されたものであるが、その中にはかなりの優品がある。数十点におよぶ磁器は、肥前(佐賀県)の”伊万里焼”とされるもので、比較的早い頃の作品から天明3年までの各期のものが認められる。明治から大正時代にかけて、いわゆる“瀬戸物”が世間一般に普及し、陶磁器類は、どこの家庭でも豊富に使用されるようになったが、それを逆上ること、約100年前、天明3年時の鎌原村ではほぼそうした状況を現出していたのである。


衣食住の関係

 a 衣類・装寝具など
  木綿布片・鋏 漆塗りの櫛 鼈甲製の笄
  ガラス製飾り玉 布製小物入れ 下駄

 b 食生活
  大麦 小麦 粟 漆器碗 陶器 磁器(鉢・小鉢・碗・皿・ソバ猪口)
  銅製水指し 箸 鍋 釜 杓子 大釜の杓子 桶 ワッパ 擂鉢 
  木製臼 地柄臼 唐臼 挽臼 竹製容器

 c住生活
  建築用材(柱・桁・梁・扠首・垂木・楔・モヤなど)釘 屋根材(茅・縄など)
  竈(凝灰岩の截石) ヒデ鉢およびその台 灯明皿 硫黄塊 ネコ(敷物)

経済生活

 a 畑仕事
  馬鍬 千歯コキ 鍬 鋤 鎌 砧

 b山仕事その他
  斧 鉈 大鎌 鳶口 鑿 砥石 石の錘 鶴嘴c 貨幣−寛永通宝


社会生活

 a教育・文化
  硯 墨 筆 矢立

 b制度
  判子 分銅 錠と鍵 刀

 c趣味・娯楽

信仰生活
  小型三尊像 振鈴 香炉 小型高杯