松島榮治先生の論文集
■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
@黒色磨研注口土器
A敷石住居跡
■修験道関係資料の調査
@万座温泉の“礫石経”
A華童子宮跡
B三原出土の経筒
C今宮白山権現
D熊野神社の奥ノ院
■埋没村落「鎌原村」の調査
@埋没した鎌原村
A鎌原村の発掘
B発掘調査の成果
■峠を越えての文化の流入
@縄文文化繁栄の背景
A修験道隆盛の背景
B鎌原村の生活文化の背景
■おわりに
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@縄文文化繁栄の背景
今井東平遺跡出土土器に関東地方の特色をもったものと、長野県や山梨県などの中部地方高地の影響をもったものがあることは、すでに承知をしていたが、平成10年度の今井東平遺跡の第5次発掘調査によって、遺構としてそれが確認された。
今井東平第5次発掘調査では、3区とされる地域で“捨て場”とされる遺構に遭遇した。捨て場遺構は、住居跡などの集中する小高い丘の北斜面にあって、南に浅く北方に向かって漸次厚く堆積し、その最も厚い部分では1.5メートルにも及びその東西の長さは17メートルにも達していた。
捨て場遺構は多量の土器片や石器の他、獣骨片や炭や灰などによってブロック状に構成されていたが、意図的に構成されたものでないだけ、その面的な広がりや遺構の上・下面の把握には困難を極めた。しかし、層位的な検討を試みたところ、A層とB層の上下2層の確認に成功し、縄文土器の形式的変遷や地域的動向などについて、新たな資料を得ることができた。
確認されたA・B両層の縄文土器は、上層に当たるA層は、縄文時代中期後半を主体に部分的に後期初頭。下層であるB層は、その殆どが縄文時代中期前半の土器であり、両者ともに、長野県地域を中心とした中部地方高地の土器と、関東地方の土器との混在が明らかとなった。すなわち、A層の場合は、長野県地域の“焼町式”・曽利式”系の土器を主体に、一部関東地方の”加曽利E式”土器の影響がみられた。これに対し、B層の場合は、関東地方に隆盛した“阿玉台式”や“勝坂式”などと長野県地域の“狢沢式”などの影響がみられた。
また、最近の検討・研究によって、新潟県の信濃川中・下流域に盛行したいわゆる“火焔型土器”系の土器の存在が明らかとなった。
ここに明らかのように、卓越した嬬恋村の縄文文化は、関東地方の縄文文化と、長野県を中心とした中部地方高地の縄文文化、さらに信濃川中・下流域の縄文文化の影響を受けて成立し、さらになお、独自な縄文地域文化を創造したものと考えられ、そこには、周辺地域から峠を越えての文化の流入があったことは確かである。
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