はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

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030.小串鉱山跡探訪の記

 昨年11月12日、前教育長豊田博先生の案内で、村文化財調査委員有志、社会教育課職員で現地を探訪した。

 氷雪の吹きすさぶ毛無峠から見下ろす小串鉱山の跡地は、その最盛期2100人を擁したとされるかつての鉱山町の片鱗はなく、崩壊しかかった変電所と索道の柱だけを、ただ残すだけの荒涼たるものであった。

 毛無峠付近で硫黄の採取を行ったのは、おそらく江戸時代にまで逆上ることは確実であろう。「大日本硫黄」が、鉱区を嬬恋側に設定したのは、大正12年とされる。しかし、その事業も昭和2年には廃止している。嬬恋側の鉱区を、小串鉱山として「北海道硫黄」が本格的な採掘を開始したのは、昭和4年のことであった。

 高品位と恵まれた鉱床によって、その生産は飛躍的に伸び、標準年間採掘量は15万トンをみるにいたり、岩手県の松尾鉱山に並び称されるようになった。こうして、標高1630メートルの長野との県境に近い、寒く雪深い高山に、空前絶後の鉱山町か形成されたのであった。

 この鉱山町に災害が発生したのは、今から60年前の昭和12年11月11日の午後3時半頃のことであった。突如鉱山背後の斜面が、幅約500メートル、長さ1キロメートルにわたって一気に崩落し、建物35棟が埋没し15棟が焼失した。これによって、245名の尊い生命が一瞬にして奪われた。その惨状は、到底筆舌に尽くせないものであったと伝えている。

 再起不可能とされた小串鉱山は、その後見事に復興され、昭和25年以降”黄色いダイヤ”の名でブームを巻き起こした。しかし、昭和30年代の半ば以降に始まる、石油精製過程から生産される“回収硫黄”によって圧迫され、昭和46年閉山を余儀なくされた。

 豊田先生の説明で荒涼たる風景の中に、一事業に結集した人々の、底力とエネルギーを感じた。また、記念碑の“心のふる里永遠なる小串”の文字に関係者の熱い想いを見た。