はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

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036.鬼押出しの溶岩流

 「鬼押出し」と言う名称が、いつ誰によって付けられたかは明らかではない。『上州浅間嶽虚空蔵菩薩略縁起』によれば、浅間山には“鬼”が住んでいることになっている。しかも、その鬼の行状が噴火に係わっているとみられることから、多分、押出しの奇異な現象を目にした里人によって、自然発生的に名付けられたものであろう。

 その鬼押出しの溶岩流が、天明3年の噴火の際に形成されたことは、鎌原村などを埋め尽くした“鎌原土石なだれ”層の上に形成されていることから明らかである。また、それが天明3年の噴火の最後のエピソードであったことも明らかである。

 しかし、大変不思議なことは、鎌原土石なだれなどの現象について、あれだけ詳細に記録を残している古文書や記録などの中に鬼押出しの溶岩流についての記述が、1件もみられないことである。鎌原土石なだれの破壊が余りにも大きく、全ての人の目がそれに向けられていたことによるものであろうか。

 こうした鬼押出しの溶岩流の表面の形状について、浅間火山研究の第1人者である荒牧重雄は、上方からクリンカー型、割れ目型、破砕型そして塊状型と分類し、これらが連続的に変化推移したと指摘している。「鬼押出し園」などはこの内の破砕型部分にあり、大小さまざまな奇妙な形をした溶岩塊が、不規則に累積されている。

 その規模は、山頂火口から北方へ約5.8キロ、幅は狭い所で約800メートル、広い所では約2キロとされ、その面積は6.8平方キロに達すると言う。堆積する厚さについては、平均すると30メートル前後と推定されている。この数値を基に体積を試算すると、約0.2立方キロとなり、石材の容積に換算すると約4億5000万トンとなる。これを10トントラックで運び出すと、実に4500万台分に相当することとなる。

 鬼押出しの溶岩流は、記録には残らない現象であったが、圧倒的な自然の巨大なエネルギーを今日に伝えている。