はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

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050.『片栗粉」の商標

 商品の名称は、その原料によることが多い。例えば、早春のころ可憐な花を咲かせる“カタクリ”の地下茎からとった良質の澱粉を「カタクリ粉」と言い、“クズ”の根からとった澱粉を「葛粉」と言った。それでは馬鈴薯からとった澱粉は、何と呼ぶべきであろうか「芋粉」とでも言うべきところ、嬬恋ではそうは呼ばなかった。

 明治16年(1883年)大世村の大日本農会通常委員、岩上八郎は次のように記している。

馬鈴薯製
一、カタクリ粉10斤価格金50銭
一、文化年間(1804年〜1817年)大笹村の黒岩九郎治の祖父九郎助が、澱粉の製法を発明し、名付けて「芋葛」と言った。
ところが、それは性質が理解されなかったため売れなかった。また、擦りおろしが大変で、その割に利益が少なかったため商売にはならなかった。
天保10年(1839年)九郎助は、大前村の美才治茂治郎の父幸助に頼み、擦りおろし機器を発明し、再び生産を開始し盛んとした。その際、加多久利(越後地方の産物の名をとり)と改称し、特産物とした。
九郎助はこの事業の創始者である。
−以下略−

 嬬恋村の馬鈴薯生産の開始については、すでに本シリーズbVに記した。以来その生産は飛躍的に増加し、明治8年の様子を記した『上野国郡村誌』によれば、田代村ではおよそ6600貫、次いで大笹村では4500貫を生産するなど、西部地域を中心に嬬恋を代表する農作物となった。しかし、それは片栗粉の生産・出荷によるところが多かった。

 すなわち、干俣村の「明治7年物産取調書上帳しによれば、片栗粉の売上が420円75銭となり、換金作物の中で第1位となったが、こうした傾向は西部地域を中心に嬬恋村全域にみられた。この状況を『干川多重郎業績書』では「土地ノ物産タル片栗粉ヲ買イ占メテ、高崎方面ノ市場ニ販売シ、以テ地方開発ニ資スル所アリ−後略−」と記している。

 明治初年、すでに1村で数千貫を誇った馬鈴薯の生産は,水車あるいは手動によって、片栗粉として生産・販売された。村中を流れる水路は、片栗粉製造過程に発生した泡によって覆われたとも伝えている。

 もしかすると、馬鈴薯を原料とする『片栗粉』の商標は、嬬恋で始まったのかも知れない。