はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然3

055.万座のゴヨウマツ
056.蛇の飾りの付いた土器
057.瀬戸の滝と不動さん
058.東平の赤色塗彩土器
059.常林寺の本堂
060.鳴尾の梵字岩
061.“丁石”百番観音像
062大前という地名
063.天仁元年の大噴火
064.月待ちの夜
065.吾妻山登頂の記
066.鎌原城の今昔
067.嬬恋村の獅子舞
068.種苗管理センター嬬恋農場
069.袋倉の獅子舞
070.近代文学の中の嬬恋その1
071.近代文学の中の嬬恋その2
072.大前の獅子舞
073.干川小兵衛のこと
074.浅間押し供養碑
075.黒岩長左衛門の事績
076.鎌原の獅子舞
077.大笹の獅子舞
078.下屋家文書
079.アンギンに挑む
080.嬬恋村の古代

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073.干川小兵衛のこと

 干俣村の草分とされる小兵衛家は、貞享3年(1686)の干俣村の「検地帳」によれば、所有する畑は合わせて五町三反七畝二二歩とある。一町前後が大半を占める干俣村の土地所有の状況からすると、飛び抜けた土地の所有者であり、時に、百姓でありながら名字を密かに名乗る程の家柄であった。

 したがって、その名前も代々世襲され小兵衛と称した。3代目を名乗る小兵衛は、天明3年(1783)浅間山の噴火、の時には60歳に達していたが、この3代目小兵衛こそ、未曾有の災害の際、間髪を入れず難民救済に立ち上がったその人であった。

 幕府の勘定奉行根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見聞書』によれば、「干股(俣)の名主の小兵衛という者は、泥押しの節、生き残った者を引き取って介抱し、小屋を建て、これまでも滞りなく日々米や麦などを援助した」とある。

 また、「干俣区有文書」の中には、小兵衛が代官の照会に対して、救援の際に実際に負担した品目と数量について記したものがある。それには、

一、米六〇俵但し三斗七升入
(以下略)

など、9品目とその数量の記載がある。そして、これにより自分の貯えはなくなり、以後、合力(寄付)はできなくなったとも記している。

 このように小兵衛は、私財をなげうって難民の救済にあたったのである。このことはやがて幕府の知るところとなり、小兵衛は、大笹村の長左衛門、そして大戸村(吾妻町)の安左衛門と共に、銀10枚と、一代帯刀、永代苗字を使用する事が許された。分限者として知られる長左衛門、安左衛門はともかく、百姓小兵衛としては破格の扱いを受けたのである。その行為が如何に卓越していたかを証するものであろう。

 災害が発生したときの救助活動は、一刻でも早く手を打つのが原則である。しかし、とかく役所(官)の対応は遅れがちである。幕藩体制下にあっては尚更のことであった。罹災者に対しての衣食住の最低の援助は、決して猶予を許されるものではない、こうした中で民間人干川小兵衛のとった行為は、どんなにか罹災者の絶望的な心を癒し、そして、生きる希望を与えたか計り知れないものがある。