はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然3

055.万座のゴヨウマツ
056.蛇の飾りの付いた土器
057.瀬戸の滝と不動さん
058.東平の赤色塗彩土器
059.常林寺の本堂
060.鳴尾の梵字岩
061.“丁石”百番観音像
062大前という地名
063.天仁元年の大噴火
064.月待ちの夜
065.吾妻山登頂の記
066.鎌原城の今昔
067.嬬恋村の獅子舞
068.種苗管理センター嬬恋農場
069.袋倉の獅子舞
070.近代文学の中の嬬恋その1
071.近代文学の中の嬬恋その2
072.大前の獅子舞
073.干川小兵衛のこと
074.浅間押し供養碑
075.黒岩長左衛門の事績
076.鎌原の獅子舞
077.大笹の獅子舞
078.下屋家文書
079.アンギンに挑む
080.嬬恋村の古代

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074.浅間押し供養碑

 鎌原観音堂参道入り口の右側、村道に沿って石造文化財が並列されている。その中に一際大きく目立つものがある。いわゆる「浅間押し供養碑」である。

 碑は、三段からなる台石と碑身からなる。碑身は、頂部を山形にした角柱形で、その大きさは、高さ153、正面幅48、側面幅45センチを数える。3段目の台石には、

施主
大笹村
一金百匹黒岩宅七
一白銀一片土屋甚右衛門
一一貫百文中嶋藤兵衛
一五百文黒岩七兵衛

干俣村
一二貫二百文干川小兵衛

中居村
一白銀一片黒岩幸右衛門
一白銀一片黒岩七兵衛

大前村
一白銀一片瀧沢伝左衛門
とある。
また、碑身には4面全体に所狭しと戒名が刻まれ、特に、正面下部には、

天明三癸卯歳七/月八日巳下刻従浅間山火石泥砂/押出於當村四百七十七人流死爲/菩提建之
文化十二乙亥歳七月八日

とある。

 これらの銘文から本碑は、鎌原村の総意で、文化12年(1815)近村の黒岩長左衛門(宅七)や干川小兵衛など篤志家8名の援助によって、天明3年“浅間押し”の際に遭難した鎌原村477人の菩提の為に、建立したことは明らかである。

 ところで、碑身4面に刻まれた戒名は、最近、摩滅によって解読不可能な部分が多くなってきた。このため、資料館では記録保存のため解読作業を行った。その結果、92家族5個人併せて464人の戒名の解読に成功した。

 この結果、明らかになったことは、「流死者477人」と明記されているにも係わらず、戒名数は464人分で、13人分不足することである。そこで、不足分の13人について検討すると、鎌原氏関係の3人、七兵衛夫妻、童子・童女6人、他に2人であることが判明した。

 この事実によって、本碑は、碑面に刻まれた464人の墓標として建てられたものと思われる。本碑に刻まれていない13人の墓標は、余所にある可能性があるのである。そう見ると本碑の形は、江戸時代中期以降に一般化した“角石塔形墓標”とされるもので、通常の供養碑とは異なるのである。