はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然3

055.万座のゴヨウマツ
056.蛇の飾りの付いた土器
057.瀬戸の滝と不動さん
058.東平の赤色塗彩土器
059.常林寺の本堂
060.鳴尾の梵字岩
061.“丁石”百番観音像
062大前という地名
063.天仁元年の大噴火
064.月待ちの夜
065.吾妻山登頂の記
066.鎌原城の今昔
067.嬬恋村の獅子舞
068.種苗管理センター嬬恋農場
069.袋倉の獅子舞
070.近代文学の中の嬬恋その1
071.近代文学の中の嬬恋その2
072.大前の獅子舞
073.干川小兵衛のこと
074.浅間押し供養碑
075.黒岩長左衛門の事績
076.鎌原の獅子舞
077.大笹の獅子舞
078.下屋家文書
079.アンギンに挑む
080.嬬恋村の古代

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034.嬬恋村の古代

 古代とは、日本史では縄文時代のあとを受けて、弥生時代から奈良・平安時代までの間をさす。この時代は、農耕社会の成立、大和政権による国家統一、律令体制の展開など、日本国家の基本的な骨組みが形成された時期であった。

 その頃の嬬恋村については、これまで十分な検討がなされていない。したがって不明とされる部分が多く、いわば“空白の時代”と言っても決して過言ではない。しかし、昨今の調査研究によって、嬬恋村の古代にも漸く曙光の兆しが現れてきた。

 平成9年、今井東平の農道6号線拡幅に伴う発掘調査において、9世紀中頃とみられる平安時代の、一部が重複する2軒の竪穴住居跡を発見した。幅5メートルとされる限られた道路敷の調査であったため、その全貌は明らかでないが付近の状況から集落の存在が予想される。

 この内、2号住居跡とされるものは、平面が長方形の竪穴住居跡で、その規模は東西(間口)8.5、南北(奥行き)6メートル前後と推定され、これまで群馬県で確認されている同時期のものとしては最大級のものであった。また、1号住居跡は、一辺が5メートル前後の通常規模の竪穴住居であった。

 なお、これら住居跡からは、鉄斧をはじめ土師器・須恵器・灰釉陶器など発見され、特に土師器には“内黒”とされる土器の内側を黒く焼きあげた特殊の手法がめだった。また、「土」と書かれた“墨書土器”とされるものもみられた。

 このようなことから、嬬恋の地にも巨大竪穴住居跡を中心とした平安時代の集落の存在が推定され、しかも、その生活文化は、国府の存在した前橋周辺と比較して遜色ないものであったことが明らかとなった。

 平安時代に書かれた『倭名類聚抄』には、吾妻郡についての記載がある。それによると、吾妻郡には「長田」・「伊参」・「大田」の三郷(ムラ)の存在が記されている。それら3つの郷の所在について、これまでの見解によると中之条町や吾妻町の地域に在ったとされ、嬬恋村など西部吾妻郡には行政の末端組織としての郷は存在しなかったとされてきた。

 今井東平遺跡の平安時代の住居跡群は、これまで空白とされた古代の嬬恋村にも集落が存在し、それ相応の生活文化が展開されていたことを雄弁に物語っている。