はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然4

081.花開く“草莽の文化”
082.的岩を訪ねる
083.コメコメについて
084.トックリ穴の洞窟
085.信州街道の中の嬬恋
086.潤いを求めて
087.田代牧場のこと
088.環境教育について
089.信州加澤郷薬湯縁起
090.鬼岩を訪ねる
091.石樋を訪ねる
092.いのち・家族の学習
093.西窪城に想う
094.舞台公演される“浅間”
095.大前村のこと
096.三原三十四所観音札所
097.三間取りの家
098.嬬恋にあった巨大な湖
099.よみがえった延命寺
100.噴火予知への試み
101.ロウ石山”を訪ねる
102.吾妻鉱山について
103.石津鉱山を訪ねる
104.嬬恋村の近代化遺産
105.キャベツ栽培の展開
106.終わるにあたって

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085.信州街道の中の嬬恋

信州街道とは、上州から信州に通ずる道の事である。その本筋は、中山道高崎宿で分岐し、榛名山の南西麓を通り、大戸宿に至る。それより万騎峠を越えて、浅間の裾廻を鎌原宿・大笹宿と経て、鳥居峠を越して信州に至った。信州に入ると仁礼宿・須坂宿を通り、善光寺または飯山方面に通じていた。この道は江戸時代にあっては、上州と北信地域を結ぶ主要な道であり、中山道と北国街道の脇往還としての性格をもっていた。

一般的に道の名称は、行き先の地名をとって付けられた、したがって、この信州街道とされる名称は、上州側からの名称であって、信州側からは上州街道などと呼ばれていた。また、部分的に通過する宿の名をとって“大笹道”大戸通り”などとも呼ばれた。さらに、本筋からの分岐もあり、大笹宿からは、中山道の沓掛宿に通ずる“沓掛街道”などもあった。

この鳥居峠越えの道は、戦国期には、真田氏の上州への進路であった。しかし、近世に入ると、北国街道↓中山道を経由して、江戸に行くよりも10里(40キロ)余りも短いという利点から、飯山・須坂・松代の三藩の廻米輸送のほか、商品輸送路として、重要な役・割を果たした。

このため、街道筋には「荷継宿」や輸送業務などを取り仕切る「問屋」が存在したが、その権限は大きく、またその収益も大きいものがあった。そのため、廻米輸送や商品継立てをめぐっての紛争も絶えなかった。

慶安3年(1650)には、北国街道筋の屋代宿(更埴市)から追分宿に至る7宿が、信州街道筋の仁礼宿と大笹宿を相手に、駄賃荷物の輸送路をめぐって訴訟を起こした、また、元禄11年(1698)以降しばしば、信州からの荷物を沓掛宿に搬送する大笹宿を相手に、鎌原・須賀尾・大戸・三ノ倉・下室田・神山の大戸通り6ヵ宿が、荷物を招致しようと訴訟を起こした。さらに、享保7年(1722)からは、干俣・門貝・赤羽根・芦生田・中井・西窪・小宿村など7ヵ村が、信州で物資を買い入れ、これまでの宿や問屋の既得権を侵して”付通し馬”とされる駄送などを行い、問屋などと対立した。

こうした度重なる紛争をみても、いわゆる信州街道の歴史的変遷の中にあって、嬬恋村地域の存在には、極めて大きいものがあったのである。