はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然4

081.花開く“草莽の文化”
082.的岩を訪ねる
083.コメコメについて
084.トックリ穴の洞窟
085.信州街道の中の嬬恋
086.潤いを求めて
087.田代牧場のこと
088.環境教育について
089.信州加澤郷薬湯縁起
090.鬼岩を訪ねる
091.石樋を訪ねる
092.いのち・家族の学習
093.西窪城に想う
094.舞台公演される“浅間”
095.大前村のこと
096.三原三十四所観音札所
097.三間取りの家
098.嬬恋にあった巨大な湖
099.よみがえった延命寺
100.噴火予知への試み
101.ロウ石山”を訪ねる
102.吾妻鉱山について
103.石津鉱山を訪ねる
104.嬬恋村の近代化遺産
105.キャベツ栽培の展開
106.終わるにあたって

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093.西窪城に想う



江戸時代に書かれた『上毛古城記』や『上州故城壘記』によると、嬬恋村に鎌原城と西窪城の在ったことが記されている。それについて、山崎一の『群馬県古城塁趾の研究』があり、それに拠って、『嬬恋村誌』には、「…西窪発電所の西どなりの小高い山で、水路鉄管の南にある−中略−西北に壕と思われる窪地があり、東と北と腰曲輪址が見られる。・・・」とある。
しかし、大変不思議なことは、その地を訪ねてみてもそれらしいものは認められないのである。
そこで改めて、その位置や状況について検証することとした。
その結果、西窪城は、村誌に書かれているような“小高い山”ではなく、その西方に所在する緩い傾斜地であることがほぼ明らかとなった。
城跡は、北西から南東方向にはしる尾根状の地形を、幅40メートル前後、長さ約120メートルの堀によって断ち切り、その丘尾を利用したもので主郭と見られる部分は、長辺約150メートル、短辺120メートル前後のほぼ長方形をしたものと推定される。この地は、北側を堀切で限り、東側は万座川の断崖に臨み、西側は地滑りのため改変されているが、僅かに腰曲輪らしいものが認められる。南側は緩い傾斜地(畑地)を経て吾妻川の崖に至るが、その間に副郭の存在した可能性がある。いずれにしろ、戦国期の武将の居城に相応しいものがある。
ここに居城した西窪氏は、「下屋家文書」によれば貞治元年(1362)の譲状の中に「さいくほのや平太郎十郎」とあり、下屋氏は西窪氏に旦那職を譲ったことを記している。以来西窪氏は、西窪の地を支配するようになったと考えられる。
在地領主となった西窪氏は、はじめ関東管領上杉氏に属したが、戦国期に至って鎌原氏と共に武田氏の麾下に、武田氏滅亡後は、真田氏に属して沼田藩に仕えた。天和元年(1615)沼田改易後は、大笹の関所番を勤めて明治維新にいたる。その間、鎌原・羽尾氏の争いなど、終始鎌原氏と行動を共にした。
この西窪氏の城としての西窪城の盛衰の時期は、必ずしも明らかではない。しかし、戦国期に築城され、江戸時代にまで至ったことは確かである。
この西窪城について、今、小高い山の裾に「嬬恋かるためぐり」のスタンプ台がひっそり置かれているのみである。