はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然4

081.花開く“草莽の文化”
082.的岩を訪ねる
083.コメコメについて
084.トックリ穴の洞窟
085.信州街道の中の嬬恋
086.潤いを求めて
087.田代牧場のこと
088.環境教育について
089.信州加澤郷薬湯縁起
090.鬼岩を訪ねる
091.石樋を訪ねる
092.いのち・家族の学習
093.西窪城に想う
094.舞台公演される“浅間”
095.大前村のこと
096.三原三十四所観音札所
097.三間取りの家
098.嬬恋にあった巨大な湖
099.よみがえった延命寺
100.噴火予知への試み
101.ロウ石山”を訪ねる
102.吾妻鉱山について
103.石津鉱山を訪ねる
104.嬬恋村の近代化遺産
105.キャベツ栽培の展開
106.終わるにあたって

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098.嬬恋にあった巨大な湖



地球の歴史は、今から約200万年前を境に、新生代第三紀から第四紀へと移りました。この時期、群馬を象徴する多くの山々が形成されました。いわゆる火山と言われるものです。火山は、噴火によって山体を形成するだけでなく、溶岩や火山灰などの噴出物によって、地形を大きく変えました。
私たちの住む嬬恋村も、その頃、地形を大きく変えました。
『嬬恋村誌』には、「嬬恋湖成層」についての記載が見られます。この層は、水平状に細かい縞目の粘土層やシルト(砂と粘土の中間の細さをもつ土)層、そして砂礫層などによって成立し、比較的静かな水の中で堆積したものとされています。
その範囲は、吾妻川に沿って東端は長野原町与喜屋の西方、西端は田代の発電所付近、南側は長野原町応桑そして大前の細原開拓付近、北側では長野原町洞口付近を限界とするとし、その規模は、東西11.5キロメートル、南北は9キロメートルにも達するとされています。その標高は、680メートル(古森)から990メートル(干俣)まで認められ、その差は、310メートルにも達します。したがって、その水深も、ただならぬものであったと思われます。
この、湖成層とされるものは、今からおよそ十数万年前の新生代第四期の頃の堆積とみられ、そこには巨大な湖の存在が考えられ、これを研究者は“古嬬恋湖”と呼んでいます。
その成因について、吾妻川は今と違って、嬬恋高原を北から南方に向かい長野県に流れ込んでいたものと思われますが、その流路に今日浅間山とされる新しい火山が誕生しました。このため流路は、山体や噴出物によって塞がれ、古い吾妻川は、嬬恋村側に大きな湖をつくったものと推定されています。
古嬬恋湖のあった頃は、地球上に人類が登場した時代とされますが、嬬恋の地に人が住んでいたかどうかは分かりません。しかし、この地には満々と水を湛えた湖があり、それを囲んでゴヨウマツ・ツガ・トウヒなどの山地帯上部の植生が茂り、その中に、“シガソウ”とされる古い象がいたことは確かです。
なお、この湖から溢れた水は東方に向かって流れ出し、吾妻渓谷では、硬い岩盤をV字状に浸食するなど、不自然な状態を示しながら、現在の吾妻川になったと考えられています。