はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然4

081.花開く“草莽の文化”
082.的岩を訪ねる
083.コメコメについて
084.トックリ穴の洞窟
085.信州街道の中の嬬恋
086.潤いを求めて
087.田代牧場のこと
088.環境教育について
089.信州加澤郷薬湯縁起
090.鬼岩を訪ねる
091.石樋を訪ねる
092.いのち・家族の学習
093.西窪城に想う
094.舞台公演される“浅間”
095.大前村のこと
096.三原三十四所観音札所
097.三間取りの家
098.嬬恋にあった巨大な湖
099.よみがえった延命寺
100.噴火予知への試み
101.ロウ石山”を訪ねる
102.吾妻鉱山について
103.石津鉱山を訪ねる
104.嬬恋村の近代化遺産
105.キャベツ栽培の展開
106.終わるにあたって

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101.“ロウ石山”を訪ねる

 干俣区仁田沢集落の北西、数百メートル離れた山腹の緩斜面に、かつての盛況を示す巨大な焼成炉が、雑木の中に立っている。そのあたりは、戦中から戦後にかけて、ロウ石を採掘した鉱山跡なのである。

 昭和15年、干俣の干川石蔵氏が同所立坪地区で炭窯造成中に、たまたまロウ石の鉱脈を発見した。これを機に、干川仁平氏や羽生田清太郎氏らによって、試験的に小規模な採堀が開始された。当初、この場所は、“ロウ石山”と呼ばれ、10人ほどの人たちによつて作業は続けられていたらしい。

 時に、太平洋戦争の最中とあって、この鉱石がアルミニウムなどの軍需物資として重要視され、昭和一八年、その採掘は”軍需産業”の指定を受けた。以来、日窒鉱業が「上信鉱山」として、国家政策の一環として採掘されることとなった。

 その状況について、昭和19年の頃には250人ほどの人が採掘のために動員されたとされ、その多くは干俣の民家に分宿し作業に従事したと言う。なお、その中には7〜80人ほどの朝鮮半島出身者もいたとされている。このため、現場には事務所や七棟もの建物も建ち、鉱山区としての形を整えた。

 採掘した鉱石は、山元から索道で仁田沢へ、それからはトラックで芦生田へ、芦生田からは草軽鉄道の貨車で軽井沢へと出荷されたが、その産出は、年間1万5000トンにも達したと言う。しかし、これほどの大事業も、昭和20年8月の終戦を契機に一切終わりを告げた。

 昭和29年、この良質な鉱石は見直され、小渕光平氏によって「光山電化上信鉱業所」として再開発された。光山電化は、専ら耐火煉瓦の資材として採掘し、「日本鋼管会社」などに出荷するなど活況を呈した。昭和32年には、高さ14メートル、直径4メートルの焼成炉を2基設置した。この炉は、生鉱石中の結晶水を放出させ、収縮と膨張の変化を防ぐためのものであって、これによって、取引価格は2倍近くにもなったとされる。

 しかし、昭和38年、火災が発生し、鉱山事務所や宿舎が焼失した。加えて、鉱脈も尽きかけていたことから閉山となった。突然の幕切れであった。

 村に活況をもたらした、近代産業の発展に不可欠とされるロウ石山の採掘跡は、訪れる人もなく静まりかえっていた。