はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然4

081.花開く“草莽の文化”
082.的岩を訪ねる
083.コメコメについて
084.トックリ穴の洞窟
085.信州街道の中の嬬恋
086.潤いを求めて
087.田代牧場のこと
088.環境教育について
089.信州加澤郷薬湯縁起
090.鬼岩を訪ねる
091.石樋を訪ねる
092.いのち・家族の学習
093.西窪城に想う
094.舞台公演される“浅間”
095.大前村のこと
096.三原三十四所観音札所
097.三間取りの家
098.嬬恋にあった巨大な湖
099.よみがえった延命寺
100.噴火予知への試み
101.ロウ石山”を訪ねる
102.吾妻鉱山について
103.石津鉱山を訪ねる
104.嬬恋村の近代化遺産
105.キャベツ栽培の展開
106.終わるにあたって

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105.キャベツ栽培の展開

 嬬恋村の発展に大きく貢献した戸部彪平氏は、嬬恋村は、「…略…男子ハ馬方トナリテ諸物資ノ運搬ヲナスモノ多ク、農業ハ女子ガ従事スル有様ニシテ…略…農業ノ実収入ハ実ニ微々タル有様ナリ。」と記している。

 こうした嬬恋村の中にあって、最も冷涼な気象条件と、荒蕪地(こうぶち)の多かった田代区は、その典型と言えるだろう。しかし、このような厳しい自然環境と、困難な生活状況の中から、田代区の“活力ある村づくり”がはじまるのである。

 昭和七年、森田啓次郎さんを含む七人の青年は、当時、キャベツ栽培の先進地とされる、岩手県の沼宮内(現岩手町)に、キャベツ栽培と出荷方法を学ぶため研修に出向いた。帰郷後、直ちに一〇戸を一組とした、収穫・出荷などの共同農法に取り組んだ。

 他方、上田市の青果商青木彦治は、田代区がキャベツ栽培の適地であることに目をつけ、農家に種子や資材を貸付、収穫物を買い取るいわゆる特約による産地の形成に尽力した。

 時に、村を東西に貫く県道が鳥居峠を経由して長野県に通じる道に改修され、トラックによる物資輸送が容易となった。このため田代区で生産されたキャベツは、遠く名古屋や京阪方面まで運ばれ、高い評価を受けるようになった。

 こうしたこともあって、田代区におけるキャベツ栽培は急速に栽培面積を拡げ、昭和一〇年には二八ヘクタールに、一五年には五七ヘクタールに達し、キャベツ栽培はここに定着した。しかし、日中戦争が始まると、戦時下の統制を受けて衰退した。

 戦後、再びキャベツ栽培は盛んとなり、特に、東京の市場に出荷されるようになるとその生産量は増加し、二五年の作付け面積は一五八ヘクタールにまで伸び、嬬恋村の基幹農産物となり、三〇年の栽培面積は、四〇〇ヘクタールとなり、四二年には一二四三ヘクタールと急増した。

 ところで、こうしたキャベツ栽培の展開にあたって、大きな問題に直面した。それは市場価格の変動による損失と、長年にわたる集中作付けによる障害の発生であった。しかし、これらは「価格差保障方式」の採用と、パイロット事業による耕地拡大によって、何とか克服した。ここに嬬恋村は“夏秋キャベツ日本一”の名声を博したのである。