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豪雪地方における山村生活をそのまま保存

雲越家住宅資料館(国指定重要有形民俗文化財)

 江戸から明治にかけての山村で、一般的な「両妻兜造り」という様式で建てられた農家。
 明治30(1897)年生まれの雲越仙太郎が最後の主となったこの建物は、家だけでなく、雪ゾリ、食器、布団にいたるまで、実際に仙太郎が使用していた生活用品がすべて残されています。建物や展示品は、すべて国の重要有形民俗文化財に指定されています。全部で4000点あまりある資料の中でも、約2500点の物は、この家にしか存在しないという大変貴重なものばかりだそうです。
 昔の山村での生活を、垣間見ることができる大変興味深い資料館です。
雲越家住宅資料館


雲越仙太郎翁
雲越仙太郎翁
雲越仙太郎
(1897-1980)
 この建物の最後の主となった雲越仙太郎翁。
昭和55年に84歳で亡くなるまで、自給自足の昔ながらの生活を、頑固に貫き通しました。
 電気のある生活を拒み、電気の明かりは行灯を用い、食べ物の煮炊きは囲炉裏にて行いました。冬の暖房としてストーブはもちろんなく、代わりに石のカイロを用いました。
また物を非常に大切にする人で、生活必需品はすべて身近な材料を使い工夫をこらして作りました。使い捨てられた鍋釜や農具にいたるまで、彼の手にかかれば見違えるようになりました。それにお金を出して安易に物を買うことを、とても嫌ったといわれています。実際にこの建物の中には、空き缶で作られたひしゃくなども展示されていました。
 また仙太郎はとても親孝行で働きものでした。幼い頃に父を亡くしましたが、遊びたい盛りにも関わらず、母を助けて一生懸命に働き、妹・弟の面倒を実によくみました。母が病に倒れてからも、15年間の長きにわたり、人手を借りずに寝たきりの母の看病をしました。
 そんな仙太郎の生活のあり方や、生涯について、この資料館で紹介されています。


アットホームな資料館
雲越家内部  90歳過ぎのおじいさんがこの建物を管理されており、丁寧に中を案内してくださりました。年齢の割りにとてもお元気で、またお話好きな方で、置いてあるひとつひとつの物について説明いただきました。解説を聞きながら見ると、より理解が深まります。お話もとても面白く、楽しかったです。
 そして案内していただいた後にお茶を入れてくださり、囲炉裏の脇に座ってお茶をいただいてきました。私は博物館・資料館めぐりが大好きで、全国いろいろ訪れていますが、こんなに丁寧に対応してくれる資料館は珍しく、とても感激でした! 


家の造り
3本の梁  この建物は両妻兜造りという造りになっています。切り妻屋根の両端が兜のような形になっているのが特徴です。
 天井を見上げると立派な梁が横たわっています。しかも3本の梁が交差していて、この形はとても珍しいそうです。
 100年以上前の建物がそのままに保存されており、囲炉裏に茅葺屋根といった懐かしい日本の風景がここにはあります。
珍しい3本の梁


信仰
神棚  仙太郎翁が大事にしていたものが、まず第一に神様、仏様。第二に天皇、第三にお母さんだそうです。現代では神社仏閣に参拝するのも、熱心な信仰心からという人が少ない中で、さすがに明治生まれの日本人ならではの価値観だと思いました。
 またこの家には、居間をぐるっと囲む東西南北の柱の上に神棚があります。北の柱は、地域の神様の山の神、東の柱は、東方にある伊勢神宮の祭神・天照大神というように、柱によってお奉りしている神様が違うのだそうです。一方、西の柱には女性の像がおいてあり、母を大事にした仙太郎ならではのことだとお伺いしました。
北の柱にある神棚


家の内部の様子
台所 調理道具 戸棚  この家の台所は、畳1枚分くらいの小さなスペースです。しかも戸棚もたったひとつしかありません。
 場所も狭く、スペースも限られているため、収納にも工夫がされていました。鍋などの調理器具は、柱にフックで引っ掛けて吊るすようになっていました。
小さな台所 吊り下げられた鍋 唯一の戸棚


食事
穀物 米  米、もち米、粟、稗、干飯、黒豆、黍など仙太郎が作っていた農作物で、主食として食べていました。不時の災害の備えとしても、これら穀物類や味噌などを常に蓄えていました。
 右の写真は、仙太郎が昭和55年に亡くなる前の晩に、用意をしておいたお米だそうです。腐らずそのままの状態で残っています。
米、もち米、粟、稗、干飯など 昭和55年の米がそのままに!


簡素な寝室
寝室  居間のふすまの向こう側は寝室になっています。かろうじて布団1枚を敷けるくらいの狭いスペースです。
 布団も今のように羽毛や綿といったものではなく、古くなった着物などの布切れが中には詰められているそうです。
 電気の明かりもないので、夜トイレに起きてもいいように、枕元には行灯が置いてありました。
当時のままの寝室


生活の道具
伊万里とギアマンの皿 生活道具  急な梯子の階段を上り2階へ行くと、さまざまな生活道具が展示されていました。右の写真は、江戸時代の伊万里焼きのお皿にギアマンの器です。当家に代々伝わるもので、かなり高価なものだそうです。 
伊万里焼とギアマンの皿 さまざまな生活道具


珍しいスキー板
昔のスキー板  珍しい昔のスキーの板。屋根裏部屋の屋根と柱の間に、板が差し入れて置かれていました。
 日本にスキーが外国から入ってきたのは、明治44(1911)年のこと。オーストリアのデオドール・エドレフ・レルヒ少佐(1869〜1945)が、新潟県高田の第13師団に着任し、日本初の本格的なスキーの講習会が行われたのがはじまりです。
 やがて、この地方にもスキーが伝わりました。主に雪上の交通手段としても使われたようです。現代と違って、スキー板も木で出来ており、スキーを靴にとりつけるためのビンディングも手作りでした。
昔のスキー板


舌切り雀
ハサミ つづら  舌切り雀の話に出てくるような大きなはさみがありました。大きさ30センチほど。これで舌を切られたらとても痛そうです。
 同じくつづらもありました。つづらとは衣服などを入れておく、収納ケースのことです。何故かくまの剥製が上に乗っているのも面白いですね。
 ちなみに舌切り雀の話の発祥は、同じ群馬県の磯部だそうです。
大きなはさみ つづら


殿様の猫絵
新田道純筆「猫絵」
岩松道純筆「猫絵」
 これは新田義貞の一族である、岩松道純(1798-1854)が書いた猫の絵です。
 別名「新田猫絵」と呼ばれるもので、江戸時代後期から明治前期にかけて、五代の殿様(孝純、義寄・徳純・道純・俊純)が、養蚕の大敵である鼠を封じるために「猫絵」を描き、地域の養蚕農家に対して配布していたものです。
 鼠は新田の殿様の猫絵に睨まれると、なぜか逃げてしまうと言われ、領民に一種の「護符」として重宝がられていました。
 この話は養蚕が盛んであった上州はもとより、遠くは埼玉や長野の地域にも知られるようになり、猫絵は養蚕農家から所望され、広く普及していきました。
 雲越家住宅資料館に伝わるこの1枚は、鼠よけの「猫絵」の信仰を裏付けるものとして大変貴重な資料です。



ラズベリーユースホステルからの行き方(車で50分)

 ユースの前の道を下り、291号線へ出て「谷川」の信号を左折します。5分ほど車で走ると、線路を立体交差し、その先に「湯の小屋」方面という看板があり、そこを右下に入ります。
 63線号(水上片品線)をしばらくまっすぐ行き、「水上宝台樹スキー場」の看板のあるところを右折。その先1キロほどで右手に「雲越仙太郎旧居資料館」があります。(水上宝台樹スキー場のすぐ近くです。)


所在地 利根郡水上町大字藤原3737
問い合わせ 水上町教育委員会 0278-72-3141
入館料 大人 210円 小人 50円
営業時間 9時30分〜16時
定休日 月曜日・祝祭日

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