はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

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045.芭蕉の句碑

 芭蕉は正保元年(1644年)伊賀国(現在の三重県)上野藩の士族の家に生まれ、はじめ貞門俳譜、のちに談林風にも親しんだ。延宝8年(1680年)江戸深川の芭蕉庵に移り、俳譜師としての生活をたてる一方「野ざらし紀行」によって、正風俳諸を確立した。以後芭蕉は、全国各地を行脚遍歴し「奥の細道」など不朽の名作を残したが、残念なことに群馬県内には来遊したことはなかつた。しかし、その句碑は210基にも達している。

 大笹神社の境内に、芭蕉の句碑が建ったのは、芭蕉没後より159年を経た嘉永6年(1853年)のことであった。碑面には元禄4年(1691年)に編まれた『猿蓑』の中から

「雲雀啼くなかの拍子や、きじの声」

が採られている。 碑の右側面には、建碑の記年銘と「一夏庵竹烟敬書」とある。背面には、世話人として、「欄陵館卓夫」など、地元の俳人8名の名を連ねている。

 上州においても、俳譜の先駆をなしたものは、貞門と呼ばれる派であったが、その後、談林派がおこり、やがて、正風とされる芭蕉派が台頭し、芭蕉の作風を慕う人達によって、ひときわ盛んとなった。

 とくに近世中期には、上毛俳人の代表とされる黒岩鷺白がいる。鷺白は草津温泉宿亭の主人で、正風俳譜の正統派を継承した。後期になると、天下の名流といわれる田川鳳朗門下で、名の聞こえた2人の上毛俳人がいた。その一人が草津の坂上竹烟である。竹烟は、諸国を遊歴した後、天保11年(1840年)草津に定住し、一夏庵を開き、後進の指導にあたった。この句碑の碑文の書者でもある。

 文人の嗜みとされた俳譜は、近世後期となると、広く一般化し、庶民の間に大きな広がりをみた。こうした中にあって、一夏庵竹烟は、嬬恋地域の多くの入達に、正風の俳譜を伝えたのである。大笹神社境内の芭蕉の句碑は、その記念碑であると同時にその頃の嬬恋地域の、庶民文芸隆盛の一端を、具体的に示すものである。

 お詫びと訂正・先月号「今宮白山権現のこと」の本文中十一画観音とあるのは十一面観音の誤りでした。